2006年の海洋研究所一般公開では本研究室主任の小池勲夫教授(当時)による「沿岸の環境はどのように変わってきたか ── 人間活動と窒素をめぐって」と題された市民講座が開かれました。このページは、その講座に合わせて補助資料として作製展示されたパネルの内容に参考文献リストを付して掲載したものです。 ここで扱われているテーマに関連した本研究室での研究活動ならびに最近の成果のうち、サンゴ礁など熱帯・亜熱帯域の生態系の研究については こちらのページ でも紹介しております。 |
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川は砂や泥のほかにも、さまざまなものを水に溶かし込みつつ、陸から海へ運んでいます。川水に溶けている成分には、大きく分けて、陸上の岩石の成分が溶けたもの(風化由来成分)、陸上の動植物や微生物が作り出したもの(生物由来成分)、農業廃水、生活排水など、人間活動によって負荷される物質(人為由来成分)の三つに分けることができます。地上を流れる川のほかに、地下水の流れとして海に入る水もあります。これらをまとめて陸水と呼びます。 陸水を通して海に供給される物質のうちで海洋の生態系にとって特に重要なものに、窒素 (N)、リン (P)、珪素 (Si) という三つの元素の化合物が挙げられます。これらは海洋生物にとって大切な栄養素だからです。 陸水中の窒素化合物は、陸上生態系での生物学的窒素固定に起源を持つ生物由来成分か、または農地での施肥や生活排水等によってもたらされる人為由来成分で、ふつうは硝酸イオン (NO3-) または水溶性の有機窒素化合物として存在します。東京近辺の川のように汚濁の進んだ河川の場合は、アンモニウム・イオン (NH4+) の形でも多量に含まれていることがあります。リンは、リン酸イオン (PO43-) や有機リン化合物として存在しますが、自然状態の陸水ではその濃度は低いのが普通です。もしリンが高い濃度で含まれていれば、それは農業・生活排水から来る人為由来成分と考えられます。珪素は、通常はそのほとんどが風化由来成分です。水田に珪酸肥料が施用されている場合はそれに由来する人為由来成分としても負荷されますが、自然状態の陸水中の珪素濃度は風化由来成分だけでも十分に高いのが普通です。珪素ふつうはケイ酸 (H4SiO4) の形で水に溶けているほか、珪藻のような、川の中で生育した珪素を含む植物プランクトンの形になって運ばれている分もあります。1) |
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陸水によって運ばれて来た物質が、実際に海洋の生態系に影響を与えていることを立証するための一つの有力な研究手段に、元素の安定同位体比の利用があります。この方法を応用して私たちが行なったわかりやすい研究の例を、次に二つ紹介します。 | ||||||
1.無機栄養塩の流入 石垣島の白保サンゴ礁には、岸辺から流れ込む地下水を通して島から豊富な硝酸イオンが供給されていて、美しいサンゴ礁の生態系に良くも悪くも影響を及ぼしています。 島から来る硝酸イオン(島窒素)は、もともと海にある窒素化合物(海窒素)に比べると、窒素の安定同位体比 (δ15N) が高いため、島窒素を利用して生きている生物の窒素同位体比も、海窒素に依存している生物に比べて高くなります 2)。下の図はサンゴ礁域に生育するパディナという海藻の窒素同位体比を地図上に表したもので、岸に近いところに生えている海藻ほど島窒素を有効に活用している様子が分かります。 |
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石垣島の白保サンゴ礁の航空写真(左上)と、サンゴ礁内に生えている海藻(Padina, 右の写真)の窒素安定同位体比の分布(右上図、δ15N, ‰)。 ── Umezawa et al. (submitted) による。 |
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2.有機物の流入 河口域では川の水と海の水が混ざり合いますが、同じようにそこでは陸地から河によって運ばれてきた有機物の粒子と、海で生まれた植物プランクトンに由来する有機物の粒子とが混ざり合って共存しています。陸の粒子と海の粒子とでは、それに含まれる炭素の安定同位体比 (δ13C) が異なることから、河口域の粒子を集めてその炭素同位体比を測定すると、川が運んできた粒子が何割を占めているのかを知ることができます。私たちは植物プランクトンに含まれている葉緑素だけを抽出して炭素同位体比を測る方法を組み合わせることによって、この見積の確からしさを高めることに成功しました(下の表)3)。 |
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人間の影響が少ない自然の河川の場合、水中の珪素の濃度は十分ですが、窒素とリンの濃度は希薄です。陸上での人間活動が活発になった場合、河川を通して海に供給される量が最も増えるのは、窒素です。また、リンの供給も増加します。陸水が海に運ぶ栄養素の影響関係を正しく理解するには、量だけでなく、窒素・リン・珪素の間のバランスについても考慮する必要があります。 沿岸海洋生態系の食物連鎖の出発点は植物プランクトンですが、海洋で植物プランクトンがどれだけ生育できるかを規定している第一の要因(制限栄養素)は、窒素である場合が多いと考えられています。そのため、人為由来の窒素化合物が陸水に運ばれて海に流入すると沿岸海洋生態系は大きな影響を受け、ひどくなると赤潮を引き起こして、水産資源に深刻な被害を招くことになります。 それに対して陸水によって海洋に運ばれる珪素については、人間活動による負荷の影響は窒素に比べるとはるかに軽微です。しかし、実際には、河川水の中の窒素やリンの濃度が増えると川の中で珪藻が増殖し、水の中の珪素を取り込んで川底に沈殿させてしまうということが起こります。このため、流域での人間活動の影響が強まると海に運ばれる珪素の量がかえって減ってしまいます。この現象は、特に川の上流にダムを造った場合に顕著になることが知られています。4) このように、人為的な富栄養化が起こると、陸域から海洋に供給される窒素の量がリンや珪素に比べて増加し、珪素の量は窒素やリンに比べて減少するという傾向があります。自然状態では海洋の植物プランクトンの主要メンバーは珪藻ですが、富栄養化がこのように進行すると、珪素を大量に必要とする珪藻は次第にいられなくなり、珪素を必要としない鞭毛藻などが増加して行きます。この結果、植物プランクトンから出発する海洋の食物連鎖全体が変容を来して、水産資源の生産量や品質にも大きな影響が出て来ることが懸念されています。 |
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【参考文献】
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All Rights Reserved, Copyright 2006 Toshihiro Miyajima, Atmosphere and Ocean Research Institute, The University of Tokyo Last modified: 15 July 2006 |