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沿岸環境問題
図1
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背景
 熱帯・亜熱帯沿岸域では、陸域と海域の境界に広がるマングローブから、浅海域砂地に散在する海草藻場、浅海域と外洋を区切る礁嶺を中心としたサンゴ礁域までが、しばしば一連の美しい景観を形成します(上図参照)。マングローブはヒルギ科の樹種を中心に構成される、河口域や潮間帯の泥質堆積物上に発達する森林植生で、沖縄では樹高 2〜10 m 程度ですが、東南アジアでは 30 m に達することもあります。海草藻場は主として潮下帯の砂質堆積物上に発達する海生単子葉植物の植生で、マングローブとは異なって光合成がもっぱら水中で行われます。温帯で知られているアマモ場と似ていますが、異なる種により構成されています。サンゴ礁は刺胞動物門の造礁サンゴ(イシサンゴ)類が形成した礁地形であり、サンゴに共生する褐虫藻という単細胞藻類が主要な一次生産者です。このほか、死滅したサンゴの骨格を主体とするリーフロック上に生育する石灰紅藻・有孔虫の群集、砂質堆積物上のサボテングサ科の石灰緑藻の群落、流動が激しいために何も生えていない砂地、河口域に発達する砂泥質干潟など、特徴的な生態系コンパートメントを伴うこともあります。
 サンゴ礁はサンゴ自身や有孔虫類が生産する炭酸カルシウム沈澱物によって砂州地形を形成し、また礁嶺の存在によって外洋からの波浪のエネルギーを弱め、沿岸の浸食を防ぐ働きがあります。このため静謐な堆積環境を必要とするマングローブや海草藻場が成立する基盤がサンゴ礁によって保証されていることになりますが、このサンゴ礁は充分な光を得られる沿岸浅海域に分布するために、人間活動に起因する次のようなさまざまな環境ストレスにさらされています。
  • 流域スケール(local)のストレス──農工業・生活排水に由来する異地性流入(栄養塩、土砂、化学汚染物質)の影響、沿岸土地開発(マングローブ林の伐採と干拓、港湾建設等)による沿岸生態系の負荷緩衝機能の劣化と各種水生生物の産卵・成育場所の消失、過剰な漁獲による生態系のバランスの乱れ
  • 超流域スケール(regional)のストレス──沿岸諸国の工業化に伴う越境汚染(主として大気中窒素酸化物による)
  • 全球的(global)なストレス──地球温暖化による異常高温状態、海水面の上昇、大気二酸化炭素による海洋酸性化(炭酸カルシウム飽和度の低下)
 サンゴ礁は人間による負荷のない条件下では極めて安定で生産性の高い生態系ですが、近年の陸域の人間活動による栄養塩・土砂の負荷、および海域における人間活動(過剰な漁獲)によって生態系としての安定性と復元力が極度に低下した結果、美しいサンゴ礁が短時日のうちに見苦しい大型藻類の林に置き換わってしまってそのまま回復しない場合がカリブ海を中心に報告されるようになりました。このような現象はフェーズシフトと呼ばれています。
 オニヒトデの突然の大発生によるサンゴの壊滅的な食害がしばしば報じられますが、その背景にも富栄養化によるオニヒトデ幼生生残率の上昇が決定的に寄与しているという研究があります。近年は海水の異常高温状態に起因するサンゴの大規模白化現象が頻発するようになり、前回の白化から十分に回復しないうちに次の白化がやって来るという、危機的な状態に立ち至っています。また大気中の二酸化炭素濃度の上昇による海洋酸性化はサンゴによる炭酸カルシウム生成を阻害するため、遠くない将来にサンゴの生存自体が不可能になる事態も現実味をもって予想されています。
 このような終末的な状態に立ち至る前に生態系の保全と再生を期するためには、環境変動に伴う沿岸生態系の応答に関する詳細な知見が必要です。そのためには生化学・生理学・生態学・生物地理学・分子系統学などの様々な生物学的研究と共に、生態系と環境との間の物質動態と群集・生態系の物質循環機能の研究、またそのための観測・分析技術の開発が不可欠になります。本研究室では主として沿岸域生態系における栄養塩動態、ならびに栄養塩負荷ストレスの生理学的・生態学的影響の解明を基軸としてフィールド・ベースの調査研究を展開しています。
実績
 本研究室では小池勲夫・前教授(現・琉球大)、才野敏郎・元助教授(現・海洋研究開発機構)の主導の下に、堆積物・懸濁物系を中心として沿岸海洋環境の研究が進められて来ました。特に、熱帯・亜熱帯沿岸の海草藻場においては、小池教授、向井宏・北大教授(現・京都大)、仲岡雅裕・千葉大助教授(現・北大教授)らを中心に、1970年代後半から、パプア・ニューギニア、フィジー、オーストラリア、タイを主なフィールドとして断続的に学術調査が行われました。人為活動等に伴う物理的・化学的な環境要因が、海草藻場の持つ生態系機能と生物多様性に与える影響に着目した調査研究の成果は6冊の報告書にまとめられています。
 1997年から2001年までは科学技術振興事業団(当時)による戦略的基礎研究「サンゴ礁における二酸化炭素固定バイオリアクターの構築技術の開発」(研究代表者:東大理学系大学院地球惑星科学専攻の茅根創助教授(現・教授))に参画し、石垣島及びパラオ諸島のサンゴ礁をフィールドとした研究を行いました。地下水経由による窒素負荷の影響評価、窒素安定同位体比による栄養塩動態の研究、海草藻場や堆積物中の微細藻類・バクテリアを介した窒素・リンの動態の解析、サンゴ礁生態系全体としての生元素ダイナミクスの解明といった、多岐にわたる研究を手掛けています。
 また、2003年度から2007年度までは東大農学生命科学研究科の鷲谷いづみ教授をリーダーとする生態系再生 COE の一環として、石垣島やタイ(アンダマン海)の海草藻場、サンゴ礁、河口域マングローブをフィールドとして、同位体比による海草の一次生産の評価手法、窒素負荷に対するサンゴの生理学的応答、河川及び河口域における栄養塩除去機能などについて調査研究を実施しました。
 小池教授の勇退後は宮島利宏・助教およびポスドク、大学院生の一部が研究を引き継ぎ、前述の仲岡教授をリーダーとする海外学術調査に引き続き参画して、アンダマン海の海草藻場をフィールドとして物理環境の改変が海草藻場生態系の種構成や物質循環活性に及ぼす影響を共同調査しています。また2008年度からスタートした 新学術領域研究「サンゴ礁学」(領域代表者:茅根創教授)および2009年度からの JST-JICA 地球規模課題対応国際科学技術協力事業「熱帯多島海域における沿岸生態系の多重環境変動適応策」(研究代表者:灘岡和夫・東工大教授)の一翼を担い、群集・生態系・景観レベルでの複合環境ストレス応答をテーマとして、現場観測、実験による代謝計測、各種同位体比分析技術、物質循環モデルを柱とする研究を推進しています。
現在
  1. サンゴ礁生態系の複合ストレス応答と物質循環・生態系モデル
    新学術領域研究「サンゴ礁学」の一環として、サンゴ礁生態系が様々な時空間スケールの環境変動に対してどのように応答するのかを解明し、モデル化することを目指しています。現在は各種のサンゴ礁コンパートメント(枝状サンゴ群集・海草藻場・礁嶺藻類群落・砂地群集など)の固有代謝活性とその季節変動、コンパートメント間の物質フラックス、外部からの栄養塩負荷(地下水・河川・降雨・乾性沈着物)の影響とその伝播経路の定量的評価、およびそれらの環境変動に対する応答の解明に力を注いでいます。
  2. 浅海域沿岸生態系における栄養塩動態の解明
    陸域〜マングローブ〜海草藻場〜サンゴ礁〜外洋の間の有機的連関に注目して、窒素同位体比による地下水由来窒素の影響評価、河川流程における窒素栄養塩の動態、マングローブからの二酸化炭素の流出など、炭素・窒素サイクルを中心とした研究を進めています。懸濁態・溶存態有機物や溶存無機炭素、無機栄養塩、およびそれらの安定同位体比を対象に、同一時間断面で多点の観測を行う総観的観測(シノプティック法)、固定された一地点または複数地点における時系列定点観測(オイラー法)、流動する海水と共に移動しながら行う連続観測(ラグランジュ法)などの観測手法が適宜用いられます。
  3. 熱帯性海草群集と物理環境との相互作用に関する研究
    干出・弱光・堆積物の安定性などの物理的環境要因が熱帯性海草に与える影響をテーマとした移植操作実験、環境要因の変動に対する海草藻場の応答予測、海草藻場の堆積促進・堆積物安定化効果が有機炭素固定プロセスに与える寄与の研究などを行っています。最近は特に海外学術調査(科学研究費補助金)の一環として、津波やモンスーンによる堆積物の物理的攪乱が海草藻場生態系に与える影響を、底生動物群集構造も含めて、実験的に解明する試みをしています。
  4. 造礁サンゴ群集からの溶存態・懸濁態有機炭素・窒素の放出とその周辺生物群集への影響
    造礁サンゴ群集は付着生物や堆積物を除去するために粘液を分泌したり、また過剰な光合成産物を溶存態有機炭素として海水中に放出します。陸域からの栄養塩の負荷がサンゴからの溶存態有機炭素・窒素の放出量や物理化学的特性にどのような影響を与えるのか、また放出された有機物がどのように分解されていくのかを、安定同位体トレーサー等を利用して実験的に研究しています。また沿岸海域における溶存態有機炭素の起源を解明する手段の一つとして、海水中の溶存態有機炭素の安定同位体比を測定する方法の開発を進めています。
  5. 化合物別安定同位体比分析を応用した生態構造遷移の研究
    脂肪酸の炭素安定同位体比、アミノ酸の窒素安定同位体比の分析技術を応用して、サンゴ礁・海草藻場生態系の構成生物の栄養的相互作用(栄養塩の供給源・食物連鎖・デトライタスの寄与など)を詳細に解明する手法について研究しています。またこうした手法の展開として、各種の環境ストレスに起因する生態構造遷移とその究極形としてのフェーズシフトの内的な構造を解明することを目標としています。
展望
 本研究室では、生態系を全体性と関係性において理解し、システムとしての構造・機能・動態を解明することを主眼としています。造礁サンゴや大型藻類、微生物群集など、生態系の一部もしくは特定構成生物を対象として研究する場合でも、システム全体の中でそれがどう位置づけられるのかという視点を常に見失わずに研究を進めることを心掛けています。
 このような指向性の研究を発展させるには、緻密な現場観測による物理・化学パラメータの時空間変動の評価、移植実験・培養実験などのフィールド検証型の操作実験による研究、データ解析および将来予測のための理論的なモデル研究の三者を有機的に結合しつつ、それぞれの方法論の利点を活用していく手腕が問われます。
 技術面では、第一に、各種安定同位体比や化学量論に基づく環境指標を利用して、沿岸生物の生活環境と群集構造、およびその変遷過程を、物質循環の視点から体系的に解明することを目標としています。安定同位体比をマーカーとして自然環境中の諸物質の起源や流通経路を推定する方法論と、同位体分別効果に着目して生態系内で進行する化学的・生物学的諸過程の進行度を定量化する方法論とを有機的に組み合わせて、起源ごとの相違と同位体分別とを同時に解析する複合モデルの確立を進めています。
 第二に、安定同位体トレーサーの利用に基づく実験法を発展・精緻化させ、これまでには解明が困難であった生物プロセスに関する情報を獲得する方法論の確立することを目指しています。GC-MS や各種分離技術と質量分析の組合せによって同位体ラベルを生化学成分ごとに追跡する手法を応用・発展させ、環境ストレスに対する一次生産者や微生物の代謝系レベルでの応答を解明することを課題としています。
 こうした手法を基盤として、当面は、サンゴ礁生態系におけるストレス伝播と生態遷移、および炭素・窒素循環における微生物学的相互作用と腐食食物網の役割といったテーマを軸に研究を進めていく予定です。  
(文責:田中義幸・梅澤有;宮島加筆)
熱帯海草群集生態学
沿岸域の生物地球化学
関連業績
 (2000年以降に出版された査読付学術誌の論文のみを掲載した。)

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Toshihiro Miyajima, Atmosphere and Ocean Research Institute, The University of Tokyo
Last modified: 19 April 2011